夕方寝てしまって大学へ行くことが出来ないことが多かったんだが、やはり最近の私の思考停止気味には受動的に情報を受け取ることが少ないからかもしれない。
大学に行かないとなると本屋やら家でテレビとかインターネットとかやっているわけだが、それだとどうしても自身が好きなものばかりを選択してしまうので、なんだか考えなくて済む方向ばかりに持って行きがちである。もちろん、本を読んだりインターネットで文章を読んだりすることに啓蒙が無いわけではない。しかし、そこも私という人間が主体としての選択があるわけでわけで、そもそも怠け者であるから、興味があるものでも後回しにし、そして結局読まなかったりするのだ。どうしても考えずに済む方向ばかりだ。
大学の講義というのは、こんな俺でも半ば強制的な面がある。好きな講義しか取らない俺だから単位取得に非常に苦しむのだが、それはいいとして、それでも講義の内容に関してその時々でどのようなものであるかは分からないし、そもそも人が話すってのを聞くことは、完全にそうとは言わないがこちらには受動的である。思考しない方向へ持っていく私には、半強制的に話を聞くことで思考することが出来る。
思えば、テレビが非常に嫌いである。扇動の力が非常に強く、なのにふざけた主張でも簡単に流す。何らかの思想を含んだニュースばかり流す。それは別に悪くは無いし、そちらの方が視聴率も取れる。しかし、基本的な「事実を流す」ということが等閑になっては困る。あれは流すが、これは流さない。もはや腑抜けとしかいえないところが目に付きすぎる。
そういった中で、テレビの力は減っていき(とはいえ情報としてはまだまだだが)、次第に個人へと移っていくのではないだろうか。きっと今に始まったことではないだろう。テレビであれそういう個人を使っているのだから。まあ、その個人を選ぶのも局であるのだが。大衆が個人を選び、そこからテレビがその個人を使うのはいい。テレビが個人を選び、大衆がその個人を信じ込むのがどうにも嫌だ。
何より腹立たしいのは、テレビが選んだ個人を大衆が信じ込むということに対し、大衆が何の疑問も持たないことだ。実際、こんなことがあるのかは分からない。しかし、そんな面はあるだろう。私はそんな馬鹿といわれる大衆の一人だ。
自分で考えることを放棄したい。したくてもそんな馬鹿な自分は嫌だから常に考えたい。そんな自分が参考にするものとは何か。ある事実が流れ、それに対して自分の主張をする。今の自分のような知識の無いものにとって、それは他の個人である。今まで生きてきた中で、この主張はいいとか、間違っているということで自分の主張を明らかにしていく。そんな中で自分の判断と似通った人が現れる。自分はその個人を信じ込み、その人に対し思考を停止してしまう。結局さっき言ったテレビのこととなんら変わりは無いではないか。
今の自分は非常に危ないところにいるんだと思う。そんな時、自分が信じるのは主張であり、決して個人ではないと思い生きていかなければならないな。
投稿者 arikui : 2004年05月24日 08:04 | トラックバックughtdxr vdbsjwcqr palchimrw ankmxzu mbtjx auiwmptcf ionbrw
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