インターネットをやっていなかった数日間に更新されてたいろんなblogを読んでるが、極東blogが始まってから1年たったそうだ。そういえば俺も結構やってる気がするなあ、と言う感じで思い返したものの、始めたのは今年のちょうど初めだったので、まだ8ヵ月半しか経ってないんだよな。1年って結構長い。やってらんねえ。もうやめた。といいつつ、やめられないのがblogのいいところ。そんなわけねえだろ、馬鹿。こんな面倒なもんねえ。
というわけで、何となく始めたばかりの頃のエントリーなんかを読んでみたが、なかなか読みごたえがあったりする。え、これって俺が書いたのか?という感じ。映画「フランダースの犬」(実写)を見ていたことをすっかり忘れてらあ。まあ、つまんなかったからいいけど。
この頃の俺はまだ良かったなあ。この頃は数ヶ月前なのにアホだったが、まだ幸せだった。今はちょっと賢くなった。それと同時に、もっと賢い人の存在から文章なんて書けなくなってしまった。今書いてることは、以前誰かが書いていたんじゃないか、とも思えてくる。つまり、俺のblogでの行為が全く無駄ではないのか、と思えてくるのである。
流石に「全く」とは言いすぎだろう。少なくとも自分にとっては無駄ではない。思考の整理もできるだろうし、何らかのストレスの発散にもなってるかもしれない。人間、何かを表現するということはストレス発散に繋がったりするもんだ。俺はとてもイヤーな気分になると落書きをしたくなる。そうやってイヤーなことを意識の奥へしまいこむ。文章を書くという行為にも似たようなことがあるかもしれない。多少文章を荒くして自分を正当化させたりもしているかな。そんなことは既に記憶に無いことだが。多分、過去ログを漁れば出てくるかもしれない。しかし、そんなものは既にゴミだ。ゴミはお宝か? 村崎百郎でもあるまい。
インターネットで長文は禁物だった。少なくとも数年前の俺にとってはそうだった。長文読んでる暇があったらもっと遊んでた。そんな長文を読ませるものがフォント弄りだった。侍魂しかり、そこら中の日記サイトがこぞって使用した。ただ、今となっちゃ使ってるほうが珍しい。流行だったのだろう。今そんなサイトをみると、懐かしさを覚える。今はフォント弄りなんてなくても文章は読むし、むしろ、そんなサイトの方がみる気がしない。俺もマトモになったのだな、なんて思ったりもするが、ただ、うまい弄り方をしているサイトなんかはいいなと思う。
今読むような文章の形態といえばblogで読むようなコラムだ。なかなか長文ではあるがそう何日もかけて読むようなもんでもない。普通に考えればこの形式に落ち着くのだろうな。書くほうも、読むほうも。
問題は内容なのだ。blogが流行って、いろんな人が出てきて、いろんな文章が出てきた。それと同時につまらねー内容のものもたくさん増えたよな。なんか、昔は平均的に楽しかった気がする。よく覚えていないが。あと、興味の無い内容が増えた。それは新たなことに興味を抱かせることにもなっていった。知識量は少ないが、興味を持つということは何かと都合がいい。生活が楽しくなる。朝日の社説に文句たれることすら楽しくなるかもな。
インターネットで人が増えたのはいいことだった。糞もある。ただ、昔から糞はあった。そんな中からいいサイトを発掘するのも、またインターネットだった。
インターネットはよい。