最近、
「文章が長いから、それに対して意見が出せない」
ということをよく言われる。
確かに文章が長いことはいいこととは思っていない。
何かを伝えるときは短ければ短いほど同等のことが伝わるのならいいに決っている。
しかし、「文章が長いと意見が出せない」ということには疑問が残った。
その理由を考えてみたとき、文章の長さとその内容に違いが出ないということである。
つまり、文章が長いから内容が変わると言うことではないので、内容が伝わるということだけを考えれば文章の長さは関係ないのである。
それは、文章が長いから意見を出せないのではなく、元々その内容について意見が出せないということである。
では、文章の長さは一体何に関係するのか。
それは伝わりやすさだろう。
キャッチコピーというのがある。
一言で伝えたい内容のイメージを伝えるのである。
言いたいことを伝えるときに短い文であれば伝わりやすい。
文章の長さとは伝わりやすさ、伝えやすさだ。
対等な議論においては文章の長さはあまり関係ないと思う。
と言うのは、内容が伝わっていなければもう一度説明してもらえばいいだけの話だからだ。
しかし、社会の中では文章を出来るだけ短くする傾向がある。
それは何故か。
それは読まれることを前提としていないからである。
読んでくれれば内容は伝わるのだが、そこに読まれる確証はない。
CMも流れてはいるが見てくれる保証はない。
そこに面白いコピーを流せば興味を惹き、内容を読んでくれるということだ。
議論において、相手の意見をCMのように思っていては、それは議論ではない。
相手の意見を理解しようとする前提が議論を成り立たせるのである。
「長いから伝わらない」というのは分かるが、「長いから書けない」ということではない。
いや、それは「長いから伝わらず、結果書けない」ということを意味するのであるが、そこに一つのステップを踏む必要はなく、直接「伝わらない」と書いてもなんら差し支えないどころか、多少の婉曲表現は思考的にも無駄なエネルギーを消費すると思えて仕方がなく、それこそ「文章が長い」と同じ結果を招く皮肉を孕んでいる。
文章が長くなるのは技術不足だとしても、「長いから書けない」は意図的にも思える。
それが意図することは表現を柔らかくすることなのだろうが、考えてみても柔らかくなってるとは思えない。
「伝わらないのでもう一度説明を」の方がどちらも楽だと思うな。