2004年03月03日

「西部の男」から見る社会

westerner.jpg
西部の男を見た。
いいな、これ。

wesutana-.jpgゲイリー・クーパーが格好良すぎ。
所謂「西部劇」って感じの服装が素敵で、あの靴なんてヤベー。ゴツ過ぎ。
でも、西部劇によくある「早撃ち」の場面がなかったと思うな。
唯一挙げるとしたら、最後敵になる男が馬泥棒を撃つシーンぐらいだったと思う。
でも、舞台は完全に西部劇だからいいんだが。

話は、ある町に家畜を扱う人たちと、作物を扱う人たちがいて、その争い。
牧畜をする方は牛たちに水を飲ませなければならないし、草を食わせなきゃならない。
それには移動が必要。
一方農民の方は、作物を作り、そこに柵を作る。
牧畜には柵が邪魔だからそれを壊し、嫌がらせに農場を荒らす。
農民と言えばそれをその場から追い払うしか出来ない。
何故なら、その辺一体を仕切っているのは牧畜側だからである。
牧畜側が開拓し、都合のいい法を作った。
法は一つの正当化であり、それによって力を行使することが出来る。
その町の法は判事であり、判事は自分の都合のいいように逆らう者の首を吊っていった。

ここで重要なのは牧畜側も、農民側も、実は社会としては正しいとは思えない。
唯一正しいと思えるのは、中立の立場を取ったゲイリー・クーパーだったと思う。
しかし、ゲイリー・クーパーは農民側についた。
理由は弱者であったからだ。
弱者であるから味方しただけであり、農民たちの考えには全面的に肯定はしていない。
現に、農民の若者が判事をリンチしようとしたとき、彼は判事を逃がそうとした。

ここでは牧畜側も、農民側も考え方は一緒であり、違いと言えば力を行使できるかどうかということだ。
もし、農民側に力があれば、その辺一体は全て農場になっており、そこに牧畜をしようとした人が来たとしても、確実に「ここは俺たちの土地だ」と追い払っただろう。
追い払われた方は野垂れ死ぬかもしれない。

ここには一つの社会がある。
思ったのは、社会は共存であり、共存は妥協だということだ。
社会は複数の人間による共同体だ。
そこにはそれぞれ完全には一致しない価値観があり、仕事があり、生き方がある。
それぞれ違ったカテゴリーがある。
それを理解した上で何らかの決定をしていくのは妥協がなければ無理であり、その理解こそが共存である。
カテゴリーを一つずつ潰していき、最終的に一つの考えに集約するということは、何かを決定するときとても楽であるが、それは共存とは言えない。
そこには生命の犠牲がなければ無理である。

●独裁と社会
独裁は一人の意見で全体が動ける状態である。戦前の日本も軍部の考え方だけで国が動く状態であり、独裁と言える。
全体を一つの考え方で統一するのが全体主義である。
共産主義者が赤と呼ばれ弾圧されていったのは有名だし、戦争を反対しただけで非国民と呼ばれた。
「~は~でなければならない」という一つの考え方で全体が動くと、それは独裁になる。
共存が正しいとすれば、たとえその一つの考えが正しいとしても、それ以外の考えを排除すれば悪となる。
その一定の人間もしくは集団に独裁ができた理由と言うのは、力を持っていたかどうかということだ。
ヒトラーが頂点に立つまでを見れば、国民からの支持が力になった。
日本で言えば、軍事力そのものが力となった。

●オウムと社会
オウム真理教というものがあった。
簡単に言えば「麻原は神であり、従わなければ悪」というものだろう。
信者にとってはオウムが社会であり、世界であった。
しかしオウムは日本の法律に縛られたし、「オウム怪しいから信者の人は目を覚まそう」という人もいた。
信者たちにとっては世界であったオウム。それにケチをつける人々。
彼らはそれを排除していき、しまいには日本を排除しオウムにしようとした。
これらのことを信者たちが正当だと思ったのは洗脳による。
洗脳が支持となり、力となった。

●北朝鮮と社会
別にナチスドイツでも同じであるが、実は全体主義が彼らにとって正当化されるのは洗脳が大きい。
ナチスドイツでは国民がヒトラーに熱狂したし、北朝鮮では金親子に熱狂している。
「ドイツを世界一に」とか「北朝鮮を大国に勝る国に」とかいうと国民は熱狂する。
日本人だってプロジェクトXを見て、日本の技術力に熱狂する。
熱狂は力に変わる。
その力は「ん、待てよ。これって、、、」と言いかけたところで、「我が国万歳!」の声による圧力で制される。
周囲の声によって「周りが言ってんだから正しいんだろうな」ということになり、実はそれが洗脳なのだ。
誰かが異論を唱えても、一言「お前間違ってる」であり、その中で生きていくにはその考えに染まる以外方法はない。
ある人にはそれは苦痛であり、彼らは弾圧されていった。

●総会屋と社会
総会屋は株主総会で自分もしくは誰かさんの都合のいいように働いて、結果総会を動かす存在である。
総会屋を動かすのは金だ。金で総会屋が動く。
総会屋が力を持つのは暴力団と絡んでいたり、情報を握っていたり、金があったり、とにかく総会を動かせるような力があるのだ。
自分の意見で総会が動くということは、それは独裁とも言える。
総会の正常な状態は自分の思ったとおりのことが言える状態であり、それは様々な意見が出ることであるから、それを阻む総会屋は不当である。


一つの共同体があっても、そこに一つの価値観だけが存在することは有り得ないと言っていいだろう。
それは友人間であってもだ。
相手を理解することは争いを無くす為には非常に重要だ。
共存は争いを出来るだけ無くすための知恵だと思う。

一つ矛盾することは、オールカマーが共存だとしても、実は排他を排除するのが共存なので、排他主義的な思想には水と油だ。
しかし、反意が同時に存在する方が矛盾なのだということにしておく。

投稿者 arikui : 2004年03月03日 05:29 | トラックバック

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