仙台に住んでるので仙台観光してきた。
暗かったのでぶれる。
まずは卸町へ行った。
仙台卸売市場の駐車場。
表。
この辺のまわりにたくさん倉庫があるんだけど、一枚も撮ってないや。
なんか道ばっかり撮ってる。
ドブ川のところにヤナギ並木があって夜来たら素敵そうな道。
個人的にはとても面白かったけど、何か友人達には不評だった気がする、が、気のせいだね。
次に仙台城跡へ行った。
わけだが、神社に来てしまっていた。巫女さん暇そうだった。
側にある公園。
全米ヒットチャートNo.1みたいなのでやってたやつ。DVD-RWだと何回でも書きかえられるのか。
アニマルズ。
ナンシー・シナトラ
ゲイ
ゲイ
ゲイに人気
まず私のエントリー「田中哲実氏がセールに求めるのはホスピタリティなのだろう」とは何か。「netkeiba&keiba@nifty[生産地便り]-相変わらずのコラムに飽き飽きw」に対する Trackback である。このエントリーの加筆部分に触れたものである。おいらがもっとも疑問なのは、田中氏は何をいいたいのか最近のコラムでは全く意味不明だと言う事だ。
に対する個人的に出した答えである。
ここで、umauma22 氏の「netkeiba&keiba@nifty[生産地便り]-相変わらずのコラムに飽き飽きw」において、田中哲実批判と田中コラム批判は曖昧に入り混じっている。先ほど触れた「田中氏は何をいいたいのかわからない」というのは田中コラム批判である。田中コラムは訳がわからない、という批判である。それに続けて、
しかし、それはセレクトセールにだってあるはずだ。しかし氏は書かない。
褒めるか、差しさわりの無い内容でまとめる。
つまり、短所であるべき部分を書けない時点で(無いのなら話は別だが。無いわけがない)、既に「何かを意識して」書いているのに他ならない。
netkeibaやkeiba@niftyは競馬関係サイトとしては大規模で、そういった場で偏ったコラムを掲載していること自体が異様だとさえ感じる。
それを仕切っているサイトがどっちなのか、おいらはわからないが、こういったものが[生産地便り]と思っているならば、呆れてさえしまう。
もし、稿料が発生していれば尚更だ。(ボランティアなのかどうか不明です)
という批判が続いている。これは田中哲実批判である。田中氏のコラムは偏った一部しか書かない、という批判である。二つを続けるとこうなる。「田中哲実は一部のことしか書かないので、コラムの内容が理解できない」である。果たしてそうだろうか。少なくとも私は、田中氏の意見が一部のことであれ理解できる内容であると思い、「田中哲実氏がセールに求めるのはホスピタリティなのだろう」を書いた。
それに対する umauma22 氏の返事が「昨日の続きです。ハイ」の加筆部分を除いたものである。コラムの内容には触れておらず、完全に田中哲実批判を展開している。田中コラムについて触れたものである私のエントリー「田中哲実氏がセールに求めるのはホスピタリティなのだろう」への返事がそれだ。であるから、私は田中哲実批判と田中コラム批判を明確にすべく、「田中コラム批判ではない田中コラム批判」を書いたのだ。
以下、「昨日の続きです。ハイ」の加筆部分における返事である。
TBされてるように、この記事に関しては賛否両論あります。
一応書いておくが、私は umauma22 氏の述べている内容についての否定はしていない。むしろ正論だとしている。
そうでしょうね。コラムを批判すると言うことは書き手を批判すると言うことにもなってしまうとおいら考えますから。
全く違う話であるし、むしろ賛同できない。正しい考えを持った人間であっても誤ったコラムを書くことはあるし、よく誤ったことを述べる人間であっても正しいコラムを書くことはある。
いや、それはおいらのblogだって同じですよ。読み手が判断してくれりゃいいッス。
私の論は、 umauma22 氏のエントリーは田中哲実批判と田中コラム批判が曖昧なままにすりかわっており、まるで田中哲実批判が田中コラム批判のようだ、という旨である。それによって何が起こるか。田中コラムの評価が正しくなされないのだ。先ほど述べたように、誤ったことを述べる人間であっても正しいコラムを書くことはある。それを判断するのは読み手であるのだ。田中哲実がまるで駄目な人間であっても、書く内容全てが頓珍漢ということにはならない。
それがハッキリと書ければ楽ですね。
ただ伝わる人には伝わると信じていますので。
おいらのことなんか放置しておいてくださいな。
では何故「netkeiba&keiba@nifty[生産地便り]-相変わらずのコラムに飽き飽きw」において田中氏のコラム「八戸市場」、「セレクトセール2005」、「北海道市場、セレクションセール」を挙げたのだろうか。ソースが不明確であり、裏付けが完全ではないことと無関係なのだろうか。そうであれば、バックナンバーからいくらでも探せると思うのだが。それが面倒だから楽じゃないというのだろうか。明確な根拠も提示できずに相手の批判をするなど、単なるレッテル貼りであり、煽りであり、責任感の欠片も無い行為である。
コラムを批判しようが書き手を批判しようが、おいら別に拘ってないですから。
第三者から見れば、コラム批判って結局は書き手を批判しているようにしか見えないでしょ。
コラム批判と書き手批判の区別も付かないのであれば、「馬系コラム」の冠を外し「馬系なんちゃらに物申す」にした方がよい。
umauma22 氏のコラムにおける田中哲実批判は全く正論である。しかし、田中コラム批判からのすりかえにより、田中哲実批判がレッテル貼りやら煽りに霞んで残念であるというまでだ。
問題なのは、「セレクトセールに不信感は無いのか?」と言う問題提起の部分が欠落していることです。
競走馬のセールで一番の問題はなんですか?
クレーム処理に対する方策ですか?
高級感の演出ですか?
営業や宣伝の方法でしょうか?答えはどれでもありません。
答えは「不正取引」です。
大事なのは、
「良くなって欲しいから批判する」ことと、
「書けないことがあるから(目をつぶって)、書けることだけを書いて批判する」
のでは、意味がまったく違います。
重要なポイントであろう。セレクトセールに不正は無いのか?
不正に目をつぶってよいのか?
至極正論である。正論とは何か。正しい論である。つまり、 umauma22 氏の田中哲実批判は正論以外の何物でもない。
では、田中哲実氏のコラムはどうだろう。これを正論ではないと言い切れるだろうか。いや、ない。反語である。今、私は確かに反語を使った。それは全くどうでもよいことである。しかし、田中氏のコラムは全くどうでもよいものではない。田中氏の視点が「日高批判」のひとつだけであるとして、それが事実であれば全くどうでもよいコラムではない。
田中氏の日高以外への態度についての批判は正論だろう。ただ、それは田中氏のコラムの内容についての批判になりうるだろうか。いや、ない。今、私が反語を使ったという事実はどうでもよいが、田中氏の言うような事実があればそれは全くどうでもよくない。よいわけがない。田中氏のコラムは正論でありうるし、少なくとも私は田中氏の言うような、セレクトセールにおける「壮大な野外劇」という感覚は全くそのとおりであろうと思うし、それによって馬の価格を吊り上げているということもあるだろうと思うし、そういったことによって売上が伸びるということもあるだろうと思う。つまり、田中氏のコラムが全くのデタラメであるとは思えず、正論であると思うのだ。
大事なのは、
「良くなって欲しいから批判する」ことと、
「書けないことがあるから(目をつぶって)、書けることだけを書いて批判する」
のでは、意味がまったく違います。
それは田中哲実批判であり、田中コラム批判ではない。
媒体やサイトから考えても、おいらのこんな弱小blogとの違いは明確で、記事の与える影響は大きいですから。
一番残念なのは、その認識が氏には欠けていることと、掲載している出版社やwebサイト運営者がそのことに気づいてないことです。
私が危惧することは、田中コラム批判とみせかけて田中哲実批判を行うことで、田中コラムが正しく評価されないのではないか、ということである。それは、どんな弱小 blog が発端であってもだ。コラム、意見の内容に大手サイトも弱小 blog も関係ない。よいものはよく、悪いものは悪い。そしてそれは読み手が判断すればよいまでだ。
よって、 umauma22 氏の田中コラム批判は次の一点である。
氏の一番良くない点は、
「ソースが不明確なことと、裏付けが完全ではない」ことです。
しかし、それについて、 umauma22 氏は何の記事に対して意見しているのかわからない。つまり、根拠が不明確である。
netkeiba&keiba@nifty[生産地便り]-相変わらずのコラムに飽き飽きw
田中氏のコラムはふーん程度にしか読んでなかったが、この比較だとよくわかるし面白い。
さながら壮大な“野外劇”を観ているような気にさせられた。ここにいると、相次ぐ地方競馬の廃止のことも疲弊する生産地のことも、まるで別世界の出来事のように思えてしまうくらいだ。
ところで主催者は八戸市場へ足を運ぶ購買者のために、「最寄駅から市場までのタクシー代を負担する」ことと、「宿泊代の特割サービス」を実施しており、いずれも好評を博しているという。あとは徹底的な「電話呼びかけ作戦」なのだそうだ。日高の市場でも見習わなければならぬ点があるのではないか。
徹底して高級感を演出し、金持ちから金を引き出そうとするセレクトセールと、それに比べて何か牧歌的な八戸市場。それぞれ対象としているバイヤーに合わせたホスピタリティという点で評価している感じだ。
セレクションセールの方はというと、
これらで述べられているような、セールに対する不信感というものが問題なのだといいたいのだろう。
ホスピタリティという点で、セールをデパートとして考えるとわかりやすい。つまり、生産者が質の良い商品を生産するのは当たり前で、それを揃えるのがデパートである。ここまでは umauma22 氏の意見と同じであろう。ただ、デパートとはそれだけではない。購入した商品ががちょっとでも気に入らないと、それを無償で取り替えたり、高級ホテルのような演出によって、来るだけで満足感を与えるといったことをやっているのがデパートだ。そのようなホスピタリティを追求することで客に対して信頼感を与え、それがブランドになっているのが高島屋であり伊勢丹であり三越であるわけだ。
田中氏からすると、そういった信頼感、安心感というブランドが、セレクトセールの様でもなく、八戸市場の様でもない北海道市場は不満なのだろう。
umauma22 氏の言う「何かを意識して」書いている
というのは当たっているだろう。それは恐らく、北海道市場の顕著な不信感である。それについてのコラムを書くことは生産者としては凄く自然であるし、それが日高の者なら一層のことだろう。自分の生産馬がセールの雰囲気で売れないのだとしたら。