ゲームって飽きるとクソゲーなんでしょうか?
だとしたら、MGSTSは俺ん中でクソゲーってことになるけど。昔のSFCのやつなんかほとんどクソゲーになるけど。
クソゲーって言葉のまんま、「クソなゲーム」なわけだから、それはつまり「つまらないゲーム」ってことだと思うんですけど。それは決して「飽きる」ってことじゃないでしょ。「飽きる」ってのは「もう十分」ってことだろ。満ち足りてもういらないってことだろ。満ち足りるまでやってるゲームは内容が希薄でない限りそれだけ面白いってことだから、もし「飽きたらクソゲー」ってんなら面白くてもクソゲーになってしまうよ。
というか、「もう飽きたわ。クソゲー」なんて言うのは他人にクソゲー呼ばわりされたからだろうと想像する。
クソゲーはクソなゲームであり、そしてその「クソな」にも色々な意味があって、たとえ面白くてもクソゲーになりかねないのは、個人がある面から見てクソであるとしたからで、実際やってみた彼は楽しんでいるということはある。
ということで、「飽きる」というところから見てみると、プレイヤーにとってすぐに全て終わってしまうゲームは、たとえクリアするまでが楽しくとも、その楽しみが続かないため「即行で飽きる」ということで「クソ」呼ばわりできる。しかし、そのプレイヤーがもし何ヶ月も続けてやっていたとしたら、それは「即行」とは呼べず、それどころか十分そのゲームを楽しんだとも思えるのであって、もしそのゲームをクソだと評価していたとしても、それは飽きたからではない。
人間は自己中になってはならないところで自己中になり、別に自己中でもいいしそこが自己中でなければむしろその人の性格の曖昧さを示してしまうという変なところがある。それはどうも他に向けたものであるようで、「他人にいいように見られたい」ということであり、それは「自分さえよければ」で成り立っている、いわば自己犠牲で、しかも陶酔すらしているかもしれない。
自己犠牲というのはどんな社会でも見られるんじゃないかと言う無関心であると思う。「本当は言いたいことがあるんだけど、自分が我慢すればいいや」ということである。いや、表向きには「自分さえよければ」なのだが、実際は自信が無いだけだろう。で、後から自信を持って言いだす人間に後追いで「そういえば俺も」と言いだすのである。そういう人間というのは、道の真ん中で腹を抱えて唸ってる人間を見ても素通りするだろう。手を差し出すとしても、だれかが駆け寄ったあとだろう。
全てをどっちつかずで生きているような人間だ。誰からも愛されるなんて有り得ない。貴様の容姿や趣味や生活なんかを見て嫌悪感を抱く人間はいるだろう。そんな単なる差別的なことなのに、信念すらないやつは結局苦しむだけだし、苦しませるだけだ。
人は変われるから素晴らしいのだろうが、何か一つだけでも変わらないものを持つべきだ。
投稿者 arikui : 2004年04月02日 03:59 | トラックバックいや、特に流されて糞ゲーと言ったわけでは無いのだが・・・・
やっぱりもっと相手に誤解の無いように伝えられる文を書かなきゃだめだな俺。
>やっぱりもっと相手に誤解の無いように伝えられる文を書かなきゃだめだな俺。
いやいや、こっちの話ですよ。
なんせこの文伝わっていないんだから。
ちゃんと嫁。