2004年04月20日

コンクリート OFFICIAL SITE

コンクリート OFFICIAL SITE(YellowTearDrops)

 1980年代の最後に実際にあった事件の映画化。その事件の内容はあまりに凄惨であった。この事件は以前にもVシネマ化されていて、そのときはゆずの北川悠仁が出演した。(リンク元のYellowTearDropsで初めて画像みた)

 そういえば先週あたり、B.ピットの「セブン」がテレビでやっていた。七つの大罪に関する内容だ。七つの大罪とは恐ろしいもので、普通の感覚を持っていたら確実に罪であるのだ。それがこの映画のオチ、ミルズ刑事の「憤怒」だ。箱の中身を知り、犯人に対して憤怒するミルズ。その憤怒は極限にまで達し、ついには形に表れた罪を犯してしまうのである。

 コンクリートのモデルとなった事件についてはこことかここを読めば分かりやすいと思う。
 集団で一人の女子高生を連れ去り強姦する。その後もそのまま監禁し続け、激しいリンチを繰り返していた。そのリンチというのも半端じゃないもので、とうとう被害者は死んでしまう。拉致されてから一月ほどである。遺体を捨てるべくドラム缶の中にいれ、コンクリートを流し込み、そのまま草むらへ放置した。
 まるで人間とは思えない行為だ。このような事件を知り、被害者のことなどを思うと怒りに満ちてくる。しかし、そういった自分が恐ろしくて、もしその犯人に会ってしまい、しかも反省すらしていなかったら、自分は殺人を犯してしまいそうなのである。たとえ、そのある種の正義感みたいなものが正しいとしても、そこで犯してしまった罪は正しいとは思えない。
 犯罪行為を憎み、それを犯した犯罪者を憎んでしまうのはあまりに当然かもしれない。しかし、だからと言って少なくとも自分はその犯罪者に罰を下すべきじゃないし、何故なら相手にも妥当な罰を受ける権利はあると思うからだ。己の主観のみでの判断をすべきではないと思うのだ。

 相手は妥当な罰を受けていないと思っている自分にとってそれは葛藤であり、それはあまりに苦痛だ。そこで人々は無関心となる。犯罪があった事実は認めるが、そのことは自分には関係無いと。映画「セブン」の街もそうである。治安の悪い街の市民は無関心になる。そうやって日々生活していくのだ。市民だけではない。退職間近のサマセットもそうであった。彼も深入りしないから生活していけたのだろう。無関心は生活していくための知恵なのかもしれない。

 しかし、その無関心さも問題であり、「セブン」で言えば無関心さに耐えられなくなった者が犯人である。街には罪が蔓延っているのだが市民はそれについて無関心であった。太りすぎて歩くのにも不自由になった者、金のためにはなんでもする弁護士、麻薬を売りつけて生活する売人、性の快楽に溺れる娼婦、外見での美しさでしか生きられないモデル、七つの大罪に基づいた犯罪によって人々の関心を取り戻そうとした。そして自分たちにも潜むその罪の欠片を認識させようとしたのだろう。最後に犯人はミルズの家庭に嫉妬し妻と胎児を殺す。それを知ったミルズは憤怒から犯人を殺す。これで七つの大罪が完成するのである。

 この映画が面白いのは、犯人を撃つ直前までサマセットはミルズを必死で止めようとするのだが、撃ってしまった後はミルズとは逆の方向に歩いていくのだ。起きた事はどうしようもない、とでも言うかのように。ある意味では事件に対する無関心さとも思える。

 もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが「見える」と言い張るところに、あなたがたの罪がある
とキリストは言ったらしい。その罪を認識するか、しないか。そのことを罪と思うかどうかということだろう。認識してしまったら、その罪に人々は苛まれるのだ。盲人であれば生活するのに楽ではあるが、その罪は繰り返すに違いない。彼らにとっては罪ではないのだから。

 無関心であるべきかどうか、死ぬまでに答えが出ればいい方だろう。このコンクリートという映画も一つの選択肢に過ぎないと思う。それだけ、事実を細部にわたって再現して欲しいものだ。

投稿者 arikui : 2004年04月20日 07:06 | トラックバック

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