2004年02月21日

認識

私は元々しつこい性格であって、気になることは追求しなければ気が済まず、それを阻まれると不快である。
それを理解してくれないならば次の文章を読まなくてもいいだろう。
もし文章を読んで、異論があるなら述べてもらいたい。
何故ならば、私が間違ったままの認識でそのことについて触れ回るのは非常に悪であるからだ。
最も大きいのは私自身にである。

これは以前、私と友人とで議論になった問題だ。
そして、私の対処が問題で非常に私にとって不都合になったのだが、ただ、他の面で色々と分かったことも出てきたので私は得であったのだが、それはまた別の話だ。
ただ、そこでは話の決着が着かなかったことだけは言っておく。

議論の中心となったのは、私が「目が見えなくても物が見える」と言ったことだ。
これに対し、「目が見えないと見えないものもある」と言われたことであった。

そもそも、ここで「目が見えないのに見える」ということは、「見える」は目を通してに限らないと言うことだ。
つまり私は「目を通さなくても物を認識することができる」ということを言っているのだ。
もし、これが嘘であるなら盲目は物を認識できないことになる。
しかし、盲目であれ道を障害物に当たらずに歩くことが出来る。
これは音を頼りに歩いているのだ。
ステッキの先で道をコンコンさせながら歩いているのは、その跳ね返り音を聞き取り、物の位置を認識しているのだ。
しかも、その音からどのような材質かも分かるのだと言う。

目が見えていても完全にその映像だけに頼っているわけではない。
ジェイムズ.J.ギブソンによって本格的に研究されたようなのだが、その物を認識するには動的な要因も必要なのだ。
写真と本物の風景を見比べて、それを同じものだと認識することは無いだろう。
たとえどんなに綺麗に取れている写真であっても、それを本物の風景だとは思わず、写真を見ていると分かる。
つまり、それが写真だと分かる、本物だと分かる。
この違いは、写真と本物を一歩横に移動して見たらすぐに分かる。
写真の場合は平面だ。一方本物は平面ではない。
出来のいい写真を用意されたら、真正面から見ただけではどちらが本物の風景か分からないだろう。
それを区別できる、つまり認識できるのは動的な要因に他ならない。

ただ、目が見えないと分からないものもある。
盲目ではミジンコは認識できないだろう。
バラの赤さを認識できないだろう。
でも、ミジンコのいるプレパラートの湿り気は分かる。
バラの棘の痛さを分かる。

思うに、ミジンコやら色なんてものは盲目の人には理解できなくても、それはそれで別にいいことだと思うのだ。
もしあなたが盲目の人に「この花の色が分かりますか?」と尋ねたとして、逆に「では、この音とこの音の違いが分かりますか?」と尋ねられたらどうだろう。
結局どっちもどっちだと思う。
つまり、その物は生きていくために必要かどうか、それによって認識する価値があるのか決まるのだと思う。
盲目の人が認識できないものがあったとしても、その人にとって生きていくために必要ではない、というだけなのだ。
屁理屈と思うかもしれない。
しかし、実際のところはそうなのだ。

ただ、盲目の人には住みにくいことは確かだ。
というのは、今の人間の社会は信号であったり、他にも色に依存している部分が大きい。
色なんてものは一つの道具に過ぎないと思っている。
なのに、「モノクロ映画はヘボい」ということが思われている場合もある。
色が無ければつまらないと思っているところがある。
でも、そういう映画のなかでも色を持つ映画よりよっぽど名作な物は山ほどある。
生きるうえでも同じで、もしこの目が全く色を受け付けなくなったことを想像して、それでも俺は生きていける。
ただ、それは非常に不便だ。
色のある社会が基本になっているためだ。
でも、色の無い社会がそこには同時に存在している。

ここでは色に限って言及しているが、別に他のことであっても同じだ。
大昔は今ほど細菌やウィルスなんか知られていなかっただろう。
その時代でも同じ人間として生きていたのは確かだ。

人間は生の営みとして物事を認識する。
そしてその認識の集合で社会が構成される。
人々はその社会ではノーマルでなければならない。
一般的でなければ阻害される社会。
それが真理かもわからないのに、一般的だという理由でそれが真理になる。
異論を唱えるとやはり拒まれ、「問題は大勢の認識による」と言われる。
そういう創造も発展もない社会は明らかに滅びの運命を辿るだろう。

今の社会ではこれはあまり問題じゃないというか、社会全体というより個人に問題があると思う。
つまり、「これが真理だと疑わない心」こそが創造と発展を阻害するのだ。
あなたの思っている「これが真理だ」と思うことのどれだけが疑わしいか。
むしろ、そこに真理があるのか疑わしい。
1+1=2だって単なる決め事だ。約束事だ。配電図の書き方と同じことだ。
そして、これから明らかになる事柄だって大いにあるだろう。

私は一度、信じていたことを打ち破られた。
そして、次に新しいことを信じた。
しかし、それを真理だとは思わない。

投稿者 arikui : 2004年02月21日 04:34 | トラックバック

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