2004年09月23日

きっと、これで今回のハルウララ騒動は終わりだ

白井透までは良かったが、そこから何の進展も無し。手っ取り早く言えば飽きた。

(9/21)祭りは終わった ハルウララの移送を巡って

 例の騒動以降のもので最もよく書けた記事だな。ただ、特に思うこともない。なぜかといえば、別に野元賢一が書かなくてもおおよそは書けることだ。つまり、こんな内容、てめーら「競馬」の冠つけてるblogerが書かなきゃ誰が書くんだ、という感じである。「馬券日記 オケラセラ」も一連のエントリーではよくやったと言えるだろう。ただ、安西美穂子サイドばかりを書いていたため、今ひとつ内容に欠けたのではないだろうか。野元賢一の記事は一応「ハルウララまとめ」としては使える文章だ。

以下、近未来SFである。

 ハルウララはどのようにして現在のハルウララとなったのか。
 はじめは売れ残った馬であったハルウララは、生産牧場の方が馬主となって走っていたようである。しかし、牧場の方が手放し、普通ならそこで引退となるはずのハルウララであるが、調教師の負担の元で走り続けることとなった、ということだそうだ。これは名義貸しであり違法ではないのか、というのが第一の問題である。

 その後、馬主が安西美穂子にかわった。しかも無償でである。このタイミングはハルウララブームの最中の出来事であった。これは、名義貸しの状態であるのは不味いという高知競馬側の考えであったか、もしくは、宗石調教師考えか。安西美穂子の動きが早かったのかもしれない。しかし、馬鹿でもなければ、全くの赤の他人である人物に無償で引き渡すとは考えづらい。

 そこで高知競馬としては思わぬ問題が起こった。相手が「安西美穂子」だったのだ。安西美穂子は競馬ファンの中ではなかなか知られたライターだ。「厩舎へ帰ろう」はシリーズとして何冊か出ているし、本屋で競馬の棚を見ればそこに並んでいるかもしれない。そしてその著書のイメージが、ハルウララにピッタリだと思ってしまったのかもしれない。

 このあたりで疑問を感じる。こ果たして高知競馬or宗石調教師にはそこまでする権限があるのか。こういうことは調べれば分かることだが、残念ながら我が脳は優秀ではないためたとえ調べてもすぐに気が逸れてしまうだろうから、情けなくも確固たることは言えない。
 ただ、ちょっと想像してみれば分かることであるが、ハルウララは高知競馬のマスコットとなろうとしていたのだ。JRAで言えば「ターフィー君」のようなものである。そして、そのターフィー君はJRAのものである。野元賢一の言葉を借りれば、「ターフィー君はJRAのペットである。」 高知競馬はハルウララを「ペット」にしようとしたのだ。これは以前のエントリーの前田管理者発言からも感じ取れる。

 だからと言って馬主は馬主だ。その馬についての決定権は馬主が最も強いものを持っているはずだ。このことが高知競馬としてはジレンマとなり、馬主安西美穂子側との亀裂を作ったのだろう。もっと馬鹿なやつが馬主になっていれば、とも思ったかもしれない。いや、もしかしたら、これら騒動の起因は彼女だけではないかもしれない。
 著書から感じる安西美穂子がいかに馬鹿でも、実は背後にちょっと賢い人間がいた。白井透である。ここ数ヶ月の「ハルウララ末期」における安西美穂子のブレーンの役割をしているのは白井透である可能性が高い。「馬券日記 オケラセラ」のこのエントリーにおける白井透の文章と、野元賢一の文章、

 安西氏と宗石調教師、高知競馬の主催者側(以下「高知陣営」とする)の溝は、8月から深まっていた。最も象徴的なのは、8月29日の出走予定が、安西氏の意向でキャンセルされたことだ。関係者によると、この時期のハルウララはいつになく好調で、29日は対戦相手も楽だった。地元専門紙関係者の中には「今回は勝つのでは」と予測する人もいたという。出走回避の真相について、高知陣営の間には「イベント性の薄いタイミングで勝たれて、同馬の商品価値が落ちることを安西氏は嫌ったのでは」と推測する声さえあった。

が嫌にリンクしている。

 さて、ここで競馬の、競走馬の倫理を考えてみる。まずはじめに競走馬はいかにあるべきか。私は「勝ちを目指すべきである」と思う。もし、これが正しければ、この白井透の文章は倫理に反すると言えるだろう。そして、その行動もだ。ただ、あくまでこれは疑惑に過ぎない。
 もうひとつ、私の競馬の倫理からして、ハルウララはそれに反していることがあるのだ。その競馬の倫理とは「強い馬が人気を得るべきである」というものだ。何故そうなのかといえば、それが馬券に反映されかねないからだ。ハルウララで言えば、大衆は負けると分かっている馬の馬券を買った。そして、ハルウララは負け、高知競馬は多くの利益を享受した。この倫理は、競馬の中でもとりわけ主催者がやってしまうとあくどい。はっきり言って、大衆はそこまで気にすることが無い。馬鹿といえば馬鹿であるが、それを逆手に取る行為は詐欺まがいである。ハルウララのことで最も非難されるべきはここにあり、そしてそれはこれからも起こり得ることだ。我々競馬ファンはここを「監視」していかなければならない。

 ハルウララはあってはならない馬であった。これは色んな意味でいえることだ。ただ、それを一般の大衆が、そして競馬ファンもが容認してしまったため収集も付けづらくなっているのも事実。ここまで来てしまったら、高知競馬のために走ってもらっても仕方ないなと思っている。
 だからと言って「また来年も」というのはちょっと同意しかねる。ハルウララが普通の馬ではないことは拒否しようにも無理なことだ。つまり、人気で走っている、ということである。この人気のために、白井透の思い描く有終の美を目指すのも仕方あるまい。我々競馬ファンができることといえば、なるべく惨めにならないよう「監視」する他ない。そういったファンなりの始末の付け方も必要である。金銭のことなぞ後回しだ。「絶縁すべし」の野元賢一には賛成ではあるが、その方法は問題だ。現在のままでの引退こそネガティヴイメージではないか。「あれは悪い冗談でした」? 冗談ではない。

 そして、野元賢一の今回の記事で気になったことは、

それにしても、罪深いのはメディア、それも競馬を知らない部門である。地方競馬の危うい現実と隣り合わせの場所にいる馬を、あれほど露出させながら、本質はきれいに素通りした。英語のcoverには、「報道する」と「隠す」の両方の意味があるが、「報道しながら隠す」とは、たちの悪い役割を演じたものだ。

という部分。「競馬を知らない部門」と書き、まるでそうでない自分は無関係のような書き方ではないか。これには自省も含まれていると解釈したい。どう表現したところで自分自身もそのメディアの一部であるのだから。


 あらゆる自省をこめて、おしまい。

投稿者 arikui : 2004年09月23日 11:00 | トラックバック

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