2004年07月08日

柔らかい感覚

 そこらじゅうの家は、街は、都市は固くなってしまったのだ。

 そもそも、「住居」とは外的環境から身を守るために作られるものなのだから、技術の進歩とともに住居はより強固に外敵から身を守るようになる。そして、その集合体としての街も固くなっていくのだ。そして、皮肉にもそれが人間を傷付けたりもするのだ。特に影響を及ぼすのは「子供」たちにではないだろうか。

 私は子供というものが、大人が思っているよりも「大人」であると思っている。それは肉体的にそうであるということだ。小学校高学年にもなれば性にも目覚めるし、人も殺せる。しかし、彼らは肉体と比較してあまりに精神が未熟である。自分の肉体の急速な発達により大きな可能性を得た彼らではあるが、そこから応用へと導く過程には多くの試行錯誤からなり、つまり、彼ら「子供」はあまりに経験が不足しているのである。そしてその経験を渇望する。

 家や街というものは人間の肉体からして、物理的にとても固いものなのだ。人間は道を固いアスファルトで覆うようになったし、壊れないように頑丈な家を建て、そして大きな空間を得るため空にそれを求めた。それにはより強固なシステムが必要になり、しだいに町全体が固くなっていったのだ。それら一連の流れは合理的といえるだろう。
 しかし、その人間が作り出した固さが、状況によっては人間を阻害するようになった。人間に対する物理的な衝撃が大きくなったのだ。例えば人が飛び降り自殺をしようとしたら、どこから落ちればよいだろうか。大昔の人間なら、住居の屋根から飛ぼうにもそんなに高さも無いため、下手しても大怪我程度で済んだのではないだろうか。より確実に死のうとしたら崖を必要としただろう。しかし、今はどうだろう。マンションの屋上から飛び降りるだけでいい。人間は身近に「崖」を得ることに成功したのだ。

 そんな「崖」を持つマンションにも子供たちは住んでいるのである。大人たちは経験から感覚的に危険を予測し、そして子供にも危険を予測する感覚は持っているだろう。しかし、子供は経験を渇望する。己の予測が正しいかを証明してみたくなる。子供と大人の決定的違いは、これら行動を起こす前の多面的な予測による判断力だろう。リスクマネジメントなどというものだ。大人の社会ですらこれが問題になるのだから、子供にこれを求めるのはなかなか難しい。

 子供たちの経験には段階を追う必要があるだろう。早く言ってしまえば、子供には段階的な痛みが必要なのだ。我々が刃物を使うとき、少なくとも一度くらいは怪我をしなければ正しく刃物と付き合うことはできない。刃物に傷付けられることで、我々は痛みとして感覚的に刃物と出会うのである。そして、物理的に人間の肉体を超越している刃物を、感覚的に制覇するのだ。
 もちろん、大人が傍にいなければ大惨事になりかねない場合もある。肝心なのは、大人が痛みを必要以上に回避させるようなことはよくないということだ。感情的なものでもそうである。悲しみを無理に隠し通すのは、子供の感覚を鈍らせることになるかもしれない。今更臭くて誰も言わないのだろうが、怒りや悲しみだって人間の成長には必要な感情なのだ。

 忘れてはならないのは、人間というものがいかに弱いか、ということである。自分の弱さを知ることで他を制することが出来るのだ。己の限界を知らなければ立場が逆になる感覚すらもってしまう。超高層ビルを見上げて恐怖する感覚。しかし、己の限界内で利用すれば怖くもなんとも無い。我々は柔らかい感覚によって生きることが出来る。

投稿者 arikui : 2004年07月08日 04:11 | トラックバック

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