2004年06月10日

偶然的血統による競馬

 我々競馬ファンなんて、「いかにして馬券取ろうか」小さい脳味噌フル稼働で考えて、その予想ってもんは「どいつが強くて、どいつが弱いか」ってことを何らかのデータから推測する行為なわけだけど、そのデータとなるものと言えば成績だとか体付きだとかジョッキーだってそうだし、サインとか言い出すともうオカルト。そのうちどこのキチガイが思いついたのかは知らないけれど、血統を理論的に解釈する人間が現れたんだから大変。そいつらが、何だか説得力のあるような無いようなことを言って我々シロウトをだまくらかすんだから、とんでもない世の中になったもんだ。そんな理論を理解するのは面倒だし、だからって競馬がつまらなくなるわけじゃない。だからテキトーに知った被って「やっぱりサンデーに違いねえや」とか言って馬券買ってた方がよっぽどましさ。今の競馬社会ってこんなもんでしょ。競馬社会にも色々あるがね。

そういうことでこの辺の話題。(かつて、俺が取り上げた話題が話題であった試しなし!)

血統の森さんのうらがわ 6月7、9日あたり

 「うらがわ」では、最近頭が朦朧としてているからかイマイチ掴み辛いけど、馬産の行く先を不安交じりに書いてるんだろう。サンデーサイレンスという大きな存在が無くなって、国内ではGI勝馬たちが当然のごとく種馬になっているのに、海外からは続々と種馬が輸入される(本当にそうかはよく分からないけど)。それに比例して牝馬の数が増えているでもないのだから、日の目を見ずに去って行く種馬は今まで以上に多くなるかもしれない。彼らの中には素晴らしいポテンシャルを秘めたものもいるかもしれないし、それを考えると憂鬱だ。
 しかし、競馬ってもんはまるで偶然性の塊。つまり、誰もが血統を理論的に突き詰めてまで配合しているわけじゃないってこと。アドマイヤベガの血統を論理的に考えることは出来るかもしれないけど、実際は「ベストにはベストだよな」で生まれたことが大きい。一体どれだけの人間が無限のごとき将来まで見通して生産してるんだろう。
 血統第一に考えていけば結局、私有財産を否定しざるを得ない。どの馬もフリーに配合できれば最高だもの。しかし、現実的に考えてそれは無理だから、人気のある種牡馬は価格を高くして、人気がなければやっぱり種牡馬を引退しなきゃなんない状況にだってなる。この<人気>なんて資本主義的で、それを決めるのは「現役時代の成績+産句の成績+血統+α」なんだろうけど、まあとにかく、これらの要因で種牡馬の種付価格&引退かどうかも決ってしまう。
 我々競馬ファンが熱狂するレースってもんは、そういった血統的な面からすれば試験期間に過ぎない。フェアリーキングが種牡馬になれたのは兄貴のお陰だろうが、オグリキャップが種牡馬になれたのはその試験期間に合格したからだ。ただ、そこで合格したからといって保証されたわけじゃない。どんなに待遇であれ、そこからいい産句を出して<人気>を獲得するしかない。そういう色んな待遇の中から、成績を元に順位付けられているのがリーディング。
 「供給過剰」ってのは数としてよりは<質>として考えていかなきゃならない。<質>ったって確実なことは判断できないんだから、結局リーディングで上位にくる馬を<質>がいいとするのが一番納得がいく。

そして、負け馬@馬耳東風さんの「リーディングサイヤー12位でも「奮っていない」のが実感ならばどうすればすごい種牡馬になれるのだろうか。」ではE.I.を交えて考えられている。一応、E.I.ってのを調べると、

種牡馬の優劣を判定するためのめやすで、出走馬1頭当たりの収得賞金の平均値を1.00として、各々の種牡馬の産駒の平均収得賞金の割合を数値で表わしたもの。1.00が平均となり、数値が大きくなるほど産駒が多くの賞金を獲得していることを表わす。これを算式で示すと (産駒の総収得賞金÷産駒の出走頭数)÷(出走馬総収得賞金÷総出走頭数)となる。

だそうだ。JRAが言うんだから間違いない。数値の大きさは産句がどれだけ賞金を稼いでいるかを示しているってことなんで、リーディングよりも生産とか馬主の側に立った数値だろう。つまり、「どの種牡馬の産句なら稼げるか」を意味している。どんだけ勝ってそのレースの質はどうかとか。それはさっきの種牡馬の<質>にも関係する。
 リーディングとなると賞金から順位付けられているんだから、産句の出走回数が多ければ比例して多くなるのは当然だろう。しかも、最近の傾向で、馬産自体は縮小しているのに、サンデーサイレンス産句の数は多くなってるというじゃないか。割合的に考えてもサンデーサイレンス産句に賞金が集まってしまう。まあ、サンデーサイレンスは異例と考えれば済むし、そもそももういないし。どうでもいいや。

 ここで、もう一度思い出してみると、「今の馬産は遠い将来まで考えて血統を練っているわけじゃなく、どちらかといえば偶然性の単発に頼ってるところがある」、そして、それは一つの経済の中で連動していること。種牡馬でビジネスしようとしたら、競走馬の方も無視できない。2歳戦で1着賞金2億円のレースができたら早熟系の種牡馬の値段は釣りあがるだろう。サラブレッドが完全な経済動物とは言わないし、馬主も金目当てとは言わないけれど、どこもかしこもギャンブル性が高い。
 忘れちゃならないのは、それだからこそロマンと語られることだ。偶然の中から突如として現れた怪物だから語れるのである。前例の無いそれを如何に表現するかと。

 我々が種牡馬を評価しようとしたとき、血統的な観点から見がちではないか。しかし、種牡馬とそれを取り巻く環境にはビジネスがあるし、馬主が稼げるかどうかだって無視してはならない。ここにある二つの価値観は、「平均的に駄目でもGI馬を何頭か出せば名種牡馬」というのと、「GIは勝たなくても確実に稼げるなら名種牡馬」。GI馬を出すのは種牡馬にとってはいいことだけど、馬主は後者を否定しないだろうな。

投稿者 arikui : 2004年06月10日 07:40 | トラックバック

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