2004年03月02日

降りる、降ろさん

「降りる」ってのは一概に自由とは言い切れない気がする。

こう言うとリベラリストとしては「強引だ」とか言うんだろう。
確かに「降ろさん」は相手に議論を強いる。
しかし、「降りる」というのも議論を強制的に止めていることになり、議論する自由と言うものを考えるとそれを阻害している気がするのだ。

議論は複数の人間がいて成り立つ。
相手がいなければ議論が成り立たないため、問題を投げかけたときにそこに意見が出たとして、「降りる」が完全に自由だったときどうしてもその相手の方が優位に立つのではないだろうか。
何故ならいつでも降りることができるのだから。
「降ろさん」は目に見える強制であるから、批判もされやすい。「降ろさん」は言い辛く、結果「降りる」は正義となる。
ケリを着けたくても難しい。

しかし、「降りる」ということは自由でもある。
しかし、その「降りる」段階に至るときは、相手に説明することが出来なくなったときではないだろうか。
相手にどうしても伝えることが出来なくなったときではないだろうか。
そういうときは仕方が無いで済むのだが、「降りる」を実行したとき、相手に説明が出来なくなったとして自分の考えが偽になる気がしてならない。(実際、偽であるのかもしれない)
二人の間にケリが着かないとしても、結局は最初の発言の偽を証明できず、結果的には偽ではないということと考えられる。
とすると、先に述べた方が優位になりそうだ。

議論は裁判のような感じでいけば最終的にけりが着く。
刑事裁判であれば、検事の「コイツは犯人だ」と証明しようとする。(物証などの道具を使って)
犯人の弁護士はその証明を崩そうとする。(逆裁だと何故か真犯人が出てくるが、ここでは「検事さん、それじゃ証明できてませんよ」で済む)

結局は裁判官がケリを着けなくてはならないのだが、結果が明かな裁判のときは、どちらかが諦めなければならない。(ここでは有罪か、無罪かだけを考え、罰については考えない)
最後に俺が言いたいのは、「往生際を見極める」ということだ。
これが最も肝心ではないのかと。
これは「降りる、降りない」の人に対してだと思う。
と言うのは、一番最初の発言と言うものは「~だ」であるからだ。
つまり、何かの断定が先にあり、その断定が出来ないことを反対に証明しなくてはならないからだ。

これを裁判で言えば、先に言う方が被告人・弁護士の方で、後から反対意見するのが検事の方だろう。
検事は被告人に容疑を突きつけそれを証明する。
弁護士は「それじゃ証明できてないよ」と言うだけで済む。(もちろん、具体的に突っ込まなきゃダメだけど)
証明できてないのに「いや、アイツは犯人だ。有罪だ!」では頭が悪い。
どうしても証明できるものがあれば、弁護士は何も言えない。

投稿者 arikui : 2004年03月02日 00:07 | トラックバック

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