2005年11月07日

あの頃は純粋だったし、愛とか、正義とか、そんなものはあまりに遠い記憶だから残ってないし仕方がない。

 もちろん名前ぐらいは知っている。けれど、あまり記憶がない。何故記憶がないのだろう。よくわからない。私は本当に競馬が好きなのだろうか、疑わしく思えてきた。全くもって記憶が蘇ってこない。あの頃、皮肉的な見方しか出来ない今とは違い、私は純粋だった。あの頃は全てに興奮していた。きっとそうだった。それなのに、何故か記憶がほとんど無い。まるで、あの頃の、その一部がずっぽりと抜け落ちてしまっているようだ。非常に焦ってしまう。

 皐月賞では、ニシノセイリュウだった。その頃から馬券のセンスは無かったといえるだろう。今ならまだマシだ、もうニシノは買わないから。それだけで大した進歩じゃないか。
 そういえば、その頃からオペラオーは注目されていた。クラシックの追加登録料を払っての出走だったかなんかで。しかし、彼が後に破壊的なまでに勝ち星を重ねるとは誰も思わなかっただろう。私にとっては毎日杯のイメージがアップしたというぐらいだったが。
 そうそう、ワンダーファング。あまり頭のよさそうな馬じゃなかったけど、なんか大好きだった。それだけに、最後のレースの結果は忘れられないものとなった。
 私の記憶はそこまで。

 ダービーはアドマイヤベガが勝った。そのときぐらいから武豊が乗るサンデー産句が嫌いになったんだと思う。アドマイヤベガは大嫌いだった。それ以上にペインテドブラックとチョウカイリョウガという二頭のサンデー産句が大嫌いだった。
 私の記憶はここまでで、すでに記憶が無い。

 菊花賞での彼は流石に記憶にある。いや、彼の記憶なのだろうか。私は彼が勝つと思っていたし、勝って欲しかった。三強というぐらいなら、仲良く三冠を分け合えばいいと思った。望んだ結果になり、私は満足した。これは彼の記憶なのか。それよりも、2着のオペラオーと3着のラスカルスズカの方が記憶にあるような感じだ。

 有馬記念では上の世代に二強がいた。私はその二強よりツルマルツヨシやメジロブライトの方が大好きだった。その古馬たち4頭で手一杯という感じだった。ツルマルツヨシが本当に大好きだった。その名前がとても格好いいように今でも思う。ツルマルツヨシがどのようにして二強に勝利するか、そのことばかりが頭にあった。結果的には大接戦にクビ差オペラオーが3着に来た。私の好きなどの馬でもなく。そのときオペラオーの将来性について高く評価した人は多かっただろう。

 翌年からはオペラオーの天下だった。春は、オペラオーとラスカルと彼と、三強の様子だったが、すでに人気的にもオペラオーが抜けていた。得意なはずの長距離でも彼はオペラオーに屈した。前走の阪神大賞典では圧倒的な走りを見せていたにもかかわらず。

 何となく分かってきた。私はその姿が嫌いだったのだ。GIでなかなか勝てないその不甲斐なさとでもいおうか。オペラオーは確かに強い馬だった。しかし、好きな馬ではなかった、と言っても嫌いなわけでは無いが。というか、皆がオペラオーを嫌うので、それが嫌で嫌いになりきれなかった。何故結果を残した馬を素直に認めないのか。それが嫌で仕方なかった。もしかしたら、その感覚を今の今まで引きずっているのかもしれない。

 だからだ。私は、本当は彼が好きだったのだ。悪があれば正義があるし、正義は勝たなくちゃいけない。けれど、その悪だって皆が悪だと言っているだけで本当は悪じゃないかもしれないし、その分正義だって勝手に正義に奉り立てられているだけで、本当は正義じゃないのかもしれない。そんな思いが私の深くで曖昧になって、それがとてもグロテスクに思えた。世界は鮮やかではなかった。妬みとか、思い込みとか、そういうのが混沌としてた。世界が嫌いになる時期だった。純粋だった。だから皮肉的になっていった。

 秋にはドトウが好きになっていた。オペラオーと同世代だが、クラシックでは活躍しなかった。頭角を現したのは古馬になってから。宝塚記念では、低い人気ながらオペラオーにクビ差の勝負だった。秋からは既にオペラオーの対抗馬の地位にまで登りつめていた。その這い上がる姿は、まさに私の中のヒーローのテンプレートのようだった。
 このときから、私の記憶からは薄れていったのだと思う。

 その年の有馬記念にはツルマルツヨシが出ていたが、復活は無いだろうと思っていた。その分ドトウに対する思い入れは大きかった。そのレースでツルマルツヨシが故障するとは思いもよらなかった。いや、そんなことは誰もがそうだろうが。結局オペラオーが勝ち、最高の1年を終えた。
 そういえば、騎手が渡辺から的場に乗り替わったレースでもあった。結構批判もあったような気がするが、的場均は嫌いじゃないしどうでもよかった。

 次の年、あのオペラオーが最初のレースで久しぶりの負けを喫した。しかも4着というのがそれなりの波紋を呼んだような気がする。しかし、春の大一番ではしっかり勝利、健在を印象付けた。そのレースでの彼は2番人気だったが、ドトウに敗れた。

 ジャパンCで彼は酷く人気を落とした、と言っても5番人気だが、それでも今までの彼を考えれば低い評価だったといえるだろう。人気はオペラオーに、その年のダービー馬ジャングルポケット、その後にドトウ、ステイゴールドと続く。結果を言えば、オペラオーでもなく、宝塚でオペラオーに勝利したドトウでもなく、ジャングルポケットだった。彼は3着。能力は衰えていなかった。

 締めの有馬。前年のオペラオー、ドトウの二強が推された形であったが、その二頭は仲良く4,5着。マンハッタンカフェとアメリカンボスという結果で、同時多発テロ馬券などという趣味の悪い話も流れた。そのレースで彼はというと、惨敗もいいところの10着。

 翌年はいつもながらのGII2戦を2勝。好調のスタートだった。その年最初の京都記念はボーンキング、ミスキャストより人気が低かったことをみると、有馬の10着というものが相当世間的に響いていたようである。

 そんな絶好調とも思えたその春の天皇賞。前のレースではジャングルポケットに勝っていたし、前年のグランプリホースは日経賞で6着と負けていたことを考えれば、1番人気は妥当なものだった。私も彼が勝つと思っていた。勝って欲しかった。これだけ走ったのだ。せめていい引退の花道を、と。しかし結果はその2頭に敗れて3着だった。

 秋には天皇賞に出た。人気もあった。しかし、結果的に言えば時代は次の世代を求めていたといえるだろう。3歳馬シンボリクリスエスが勝利したのだ。

 次のジャパンCで人気になるも惨敗。有馬記念では4番人気4着。引退。

 なんとも味気ない最後だ。それも仕方が無い。長く走りすぎていた。クラシックから常に第一線で。GI勝利は菊花賞だたひとつであるが、人々の記憶には同じ世代の、他のどの馬より残った。そう思うと幸せかもしれない。オペラオーの存在を思うと、どれだけ多くのGIを勝っても、それ以上に愛されたトップロードは幸せだった。

 そうか、彼は死んだのか。いまいちピンと来ない。よく分からない。記憶だって曖昧だから。彼のことを思い出してみた。その部分だけぽっかりと開いてしまった穴だ。今日、多少なりともその穴はふさがったように思う。しかし、彼がいないという、その穴が新たにぽっかりと開いてしまった。なんとも皮肉だ。これは私への罰なのだろうか。だとしたら誰が与えた罰だというのだろうか。

 彼が私の心に残り続ける存在になったとして、それは私にとってとても幸せなことじゃないか。ここは本来なら礼を言うべきところだ。何ていうんだ? 「死んでくれてありがとうとう」とでも? またか。いつも私を困らせる。オペラオーに勝てなかった彼。GIで何度も負けた彼。必要のない幻想を抱かせた彼。死んでしまった彼……。


 遅すぎるけどやっぱり言おう。ありがとう、ナリタトップロード。

Posted by arikui at 23:55
comments (0) | trackback (0)

それ以前のエントリー