2005年08月21日
家族
夫婦と子供二人とじじいが、長崎の伊王島から北海道へ旅する話。長崎から広島の兄弟の家、大阪、東京、青森、そして北海道へと旅をする。
これがあまりに酷い。残酷だ。赤ん坊は東京で死んでしまうし、北海道へ着いたと思ったらじじいは死ぬし。しかもその死に方というのがなんとも悲しい。赤ん坊は母親に大阪を連れまわされ、具合が悪くなりそのまま死亡。じじいは北海道に着き、宴会ではしゃいでその疲れで死亡。なんとも言えない心地の悪さだ。
この映画で心に残ったのはじじい役の笠智衆だ。私の中での笠智衆といえば、男はつらいよの御前様のような、あまり感情を表に出さない人物だ。この映画でも基本的にはその笠智衆であるが、ときたまその印象とは全く逆の、つまり非常に感情を表に出した演技をしており、それが非常に記憶に残ったのだ。例えば、大阪で人ごみの中をかき分けて、やっと着いたレストランでビールを飲むその表情。北海道での宴会で気分がよくなり歌いだすその表情。そうそう、新幹線の中から富士山を見たときの表情もまたそうであったが、嫁に無視されていてちょっと切なかった……。そんな笠智衆に我々は、「良かったね、おじいちゃん」と思わず発してしまう。笠智衆の演技には、自然な強制力があるのだろう。それはあまりに日本的である。自然であるから我々はそうせざるを得ない、という考えをなんとなく我々は持っている。
考えてみれば、あまりに劇的な内容なはずが、そこに自然を感じる映画だ。笠智衆に限らず、子供が父親と戯れる様子もまたあまりに自然な演技であるし、その土地のエキストラを使うことで一層自然な雰囲気を醸している。そこにいる人間たちは自然な存在だ。一般的な人間たちだ。それ故共感を生むのだろう。
そんな共感の中で悲劇が起こる。子供が死ぬ。いや、それだけではない。もともと貧乏な家族だ。女房が色目を使い金を借りるのを、その場で聞いていながら何もできない夫など悲劇としかいいようがない。
共感できる人物に悲劇が起こり、それでもハッピーな終わり方。典型的な山田洋次の人情劇であり、この映画も漏れなくそうである。毎度毎度の山田洋次だ。なのにその都度泣けてくる。山田洋次のテンプレートとは、泣けるテンプレートなのだ。浦沢直樹の漫画のごとく、泣けるテンプレートというものがそこにある。
投稿者 arikui : 2005年08月21日 20:33
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